ボーリング・フォー・コロンバイン

 木曜洋画劇場で初めて観る。唸らされる内容であった。特に、先日の旅行でアメリカ・カナダ両国を見てきた身としては、カナダ人とアメリカ人の比較は結構頷けた(シアトルはカナダ国境に近いので、国境を越えてバンクーバーまで行ってみたのである)。
 俺が見た「アメリカ」はシアトルだけである。だからそれが全てとは思わないけど、でもアメリカの一部を見たことは間違いない。
 向こうの家には表札がなかった。だから、隣の家の人と「Good morning!」と挨拶を交わすけれど、名前は知らない。車社会だから、町を歩いていて人とすれ違うことがない(都市部は違うだろうけど)。バスに乗って、知らない人と陽気に会話を交わす。それは確かにアメリカ人なんだけど、その一方で、他人との間にものすごく分厚い壁を作っている。現実に対して、どこか拒否するような姿勢がある。
 『ボーリング〜』は一応銃社会を批判した作品だけど、銃そのものではなく国民の「恐怖心」に問題がある、という点では、日本も変わらない。銃を使っていないだけで、日本でも子供が子供を殺している。ムーア監督に佐世保の事件を教えてあげたい。

 バーチャルな世界が原因、というと、なんかそこらのニュースで「ゲームが悪いんです」とかしゃべってるバカな学者さんみたいになっちゃうので嫌なのだが、多分それが一つの原因だ。バーチャルといっても、TVゲームやインターネットのような「新しい仮想現実」だけを指しているのではない。古くからある「書籍」だって、バーチャル体験をもたらす道具だ。問題は、仮想現実が本当の現実に成り代わっていることにある。
 『源氏物語』を読んだ平安貴族はきっと、「これが現実だったらなあ」と仮想現実を仮想のものとして楽しんでいたんだと思う。でも、今はTVや書籍の中の仮想現実が「本当の現実」として受け止められ、目の前の現実は「この世の現実ではない」として片付けられてしまう。ほんの一握りの現実が、世界全てを代表する現実のように扱われている。アフリカの国はどこも飢餓に苦しんでいるように思われているし、イラクは国中で銃撃戦が起こっているように思われている。
 この問題に対して俺が提示できる解決策は、「子供にものを作らせる」ことだ。レゴブロックでも粘土細工でも、畑を耕して作物を作っても構わない。とにかく、「自分から現実にアクセスする」経験を積ませる。TVの向こう側ではなく、目の前にこそ「現実」があるということを、皮膚を通して理解させるしかないと思う。